浄土真宗について

仏教の救いとは 

浄土真宗といっても、仏教であることに変わりはありません。
その仏教とはいかなるものでしょうか・・・
 
釈尊も、もとは苦悩多き凡夫(ぼんぶ)でした。しかし釈尊は、この地上では初めて苦悩の根本原因を突き止め、これを断ち切って悟れる仏陀となられました。
仏陀とは、「悟った人」「法(真理)に目覚めた」という意味です。 
仏教とは、この釈尊が悟りを開いて体験した救いの喜びが、様々な教えとなったものだといえます。 
仏教の救いとは、この釈尊の教えに導かれ法に目覚めるならば、自分を縛りつけ苦しめてものから解き放たれ、自由の喜びを得ることを教えてくれるものです。 
仏教では、「(きょう)」を理解するだけでは意味がなく、教えが示す「(さとり)」をめざして「(ぎょう)」をしなければなりません。
仏教から「(ぎょう)」を取ってしまうと仏教でなくなってしまいます。 


真実の行はすでに与えられていたことに目覚めて 

親鸞聖人(一一七三~一二六二年)は、法然上人に出あわれるまでの二十年間は、この真実の行に出あうための、まさに苦行の連続でした。 
そして、ついぞ「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(歎異抄(たんにしょう))と吐露(とろ)せざるをえませんでした。 
そして、法然上人に「本願のいわれ」を聴聞される中で、「いづれの行もおよびがたき身」に、すでに南無阿弥陀仏という真実の行が与えられていたことに目覚められ、歓喜(かんぎ)に心はうち振るわれたのでした。 
このように浄土真宗は親鸞聖人が開かれ、聖人の救いの体験によって裏打ちされているものです。 


南無阿弥陀仏は称えるより先に救いの手立てが出来上がっている
 

真実の行は、仏様の本願の結晶である南無阿弥陀仏をいうのであって、南無阿弥陀仏より他に救いのないことを、聖人は生涯をかけて明らかにして下さったのです。
ですから、親鸞聖人のみ教えに生きようとする者は、ひたすら南無阿弥陀仏のいわれ(仏願(ぶつがん)生起本末(しょうきほんまつ))を聴聞することが何よりも大切です。 
南無阿弥陀仏のいわれを聞き、その救いを信じて称えることを念仏といいます。
南無阿弥陀仏のいわれも聞かずに、ただ口にナンマンダブツとばかり称えることではありません。 
南無阿弥陀仏は、称えるよりも先に、私を救う手立てがすべて出来上がっていて、はたらき続けて下さっている真実の行であるあることを強調されたのが親鸞聖人です。 
念仏は、その意味で呪文でもなければ、仏様に救われていくための手段でもありません。
 
仏様の法から与えられている行として称える念仏であれば、誰が称えようとも、真実の行です。
そういう意味において、浄土真宗は、念仏成仏の宗教だといえるわけです。 


迷いから離れたいという願いすらない私たち 仏教では、人間の行い

(ごう))を、身業(しんごう)(身体による業)、口業(くごう)(口による業)、意業(いごう)(心による業)の三つに分け、この身口意(しんくい)の三業が清浄でなければ安らかな生活はできないとし、とりわけ意業は大事であって、これを深く見つめて、ことごとく清浄にしなければならないと説きます。
そのためにこそ行があるわけです。 
ところが私たちは行をするどころか、生きていくために実に多くの罪業(殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口)を積み重ねています。
この罪業を命じているのが我執です。そして罪業が苦しみをもたらし、苦が罪業を生んでいくという繰り返しの中から、一歩も出られません。
にもかかわらず私たちは、こういう迷いの姿が見えないため、迷うから離れたいとい願いすらもありません。
 
罪業によって流転するしかない私たちの姿を憐れみ、救わずにおれないと立ち上がって下さったのが阿弥陀如来です。 
この罪業を知らされるとともに、明日をも知れぬわが身のむなしさに気づかされる時、まさに「後生(ごしょう)の一大事」といわざるを得ません。 


阿弥陀仏に遇うにはどうすればいいのか 

こうした私たちが真に救われていく道は、南無阿弥陀仏という法以外にはないのだということを示して下さったのが親鸞聖人です。
しかし私たちは、この南無阿弥陀仏の法だけが本当に頭を下げずにおれない、たった一つのものになっているでしょうか。 
昔から、「真実の親様」といってきた阿弥陀仏は、私を迷いから救い取ろうと常にはたらきかけ、逃げる私を見捨てることなく、どこどこまでも追いかけて抱き取ってくださるのです。
その阿弥陀仏に遇うにはどうすればいいのでしょうか。
信心を賜るにはどうすればいいのでしょうか。 
それは、南無阿弥陀仏のいわれを聞けばいつでもどこでも遇うことができるのです。 
「いくら念仏を称えていても、もう一つすっきりしない決定的な喜びがない」「念を押されれば、たよりない思いしかない」と悩んでいる人も決して少なくありません。 
そういう時に、自分を納得させるような持ってきて安心しようと試みてはいけません。
信心は、如来大悲の願心から与えられるものであるということが浄土真宗の肝要です。
自らに問いを持ち、心の闇が晴れるまでごまかさず逃げず、南無阿弥陀仏のいわれ、本願のいわれを聞かせていただくことです。
必ず如来大悲の願心によって、「信心歓喜」と向こうから治まって来て下さるものです。


浄土真宗 十方会
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