「ただ聞く」 心をいただいて・・・・

如(ありのまま)の中に生きているが…
私たちを迷いの存在である、と仏法は教えてくれます。
何故でしょうか?
「如来」の「如」は「ありのまま、そのままの真実の世界」ということであって、唯一の真実の世界です。
私たちはこの世界に生かされて生きています。
ところが、この「ありのまま」のせかいに生きていながら、「ありのまま」を「ありのまま」に受け取ることが出来ずに生きているのが人間であって、そのことを迷いという。
こう教えて下さるのが仏法であります。
では、何故「ありのまま」を「ありのまま」に受け取ることが出来ないのでしょうか。
それは、私たち人間には、自我執着心(じがしゅうじゃくしん)(以後「我」という)というものが生まれながらに組み込まれて、これに操られて生きているからです。


「我」とは何か?
ではその「我」とは何か。
それは第一には、私たち人間は、今自分の関心のあるものにしか心は動かないようになっているということです。
例えば、ある本を読んだ場合でも、二回目、三回目と読んだ時、「あれ。こんなこと書いてあったかな」と思うことがしばしばあります。
私は、夜中に健康のためウオーキングをすることがよくありますが、ある時点でパッと街頭の明るさに気づいたり、ガードレールが大きな影を作っていたり、星やお月さんの存在に突然気づくことがしばしばです。
毎回不思議に思うことです。
「我」とは何か。第一に取り上げたことを、もう少し掘り下げていきますと、今、自分にとって都合のいいものしか、わが心は取り入れないということになります。
仮に都合の悪いものが目の前に存在してきても、無視するか、打ち消していく。こういう心が「我」だと言えます。
「我」とは何か。
さらに掘り下げていきますと、どうなるのか。
「自分の思うとおりにしたい」という根性、この根性は白分では分かりません。だから厄介(やっかい)なのですが、この根性に操られて心が行動している。こうした心が、「我」と言われているものです。


「聞く」浄土真宗のいのち
お釈迦様は大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)というお経さんの中で、南無阿弥陀仏のいわれを「聞く」こと一つで阿弥陀様から信心とお念仏をいただき助かる身にならせていただくのだと教えて下さいました。
そして親鷺聖人は、この「聞く」ということは、「仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし」(ご本典の信巻・末)だと言われ、「聞く」こと以外に浄士真宗の「いのち」はないのだということを、明確にして下さったのです。


がむしゃらに聞いてきたが……
私も浄士真宗の僧侶として、当然の教えてとして「聞く」ことの大切さを受け入れ、いろんな先生のお話をがむしゃらに聞き、いろんな先生のお書物を買いあさっては次々と読み込んできぎした。そして、何度も行き詰まりながらも「分かった。分かった」「そうか。そういうことだったのか」と行き詰まりを「乗り越え」ては何度喜んだことでしょう。
しかし、「そのまま」聞いてはいなかったのです。


自分の都合のいいように聞いてきた
一生懸命聞いてきたつもりでした。
しかし、「そのまま」に聞いてはいなかったのです。
自分の都合のいいように聞いては取り込んで、白分の側に確かなものが作ったかのように思い込んでは壊れ、思い込んでは壊れしていたに過ぎなかったことに気がつかされました。
「これで、いい筈だ。これ間違いない筈だしと、自分に言い聞かせていたに過ぎなかったことに、フッと気づかされました。
「そのまま」聞く心をいただいたお方が、仏様のお使いとなって私の自力我執の心を知らせて下さったお陰であります。


私はどこまでもゼロであることを聞く
罪悪深重(ざいあくじんじゅう)煩悩熾盛(ぼんのうしゅじょう)の衆生をたすけんがため」(歎異抄

(たんにしょう))の仏様の願いであり、私の側は「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(同)の自分なのであります。
ここを聞かせていただくのが私の仕事でありますのに、聞かせていただいて、こちらに助かるものがらをこしらえようとしていたのです。
この心こそが、仏様を疑う心であって・仏様の願力をはねつけている張本人であることを知らされました。
後生ほどの大事に私の側の持ち出しは何もないのです。
どこどこまでも私の側はゼロです。
ここを聞かせていただくことが、何はさておき大切なことだと知らされました。
「ただ聞く」「そのまま聞く」-。いくら耳にし、目にしても分からなかった言葉ですが、やっと私に通じたようです。

                         南無阿弥陀仏

浄土真宗 十方会
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黒 田 真 隆

インターネット法話