Ⅰハンセン病とは

 (らい)(きん)」による感染症です。ハンセン病は、ノルウェーのハンセン医師が発見した「癩菌」と言う細菌による感染症で、かつては「らい病」と呼ばれていました。体の抹消神経がまひしたり、皮膚がただれたような状態になるのが特徴で、病気が進むと容姿や手足が変形することがあります。そのため人びとは、病気に対する恐怖などから患者やその家族を、遺伝と称して邑から疎外し、差別してきました。それはハンセン病に対しての無知から来る偏見です。現在も法律用語や医学用語では「癩」の用語は使用されています。しかし、一般社会において「癩病」と言う言葉には過去長年、差別的賤称語としての役割を果たしていました。差別解放の視点から「癩菌」発見者ハンセン氏の名をとって「ハンセン病」と呼ぼうとの運動が広がって、今日では「癩病は差別語につながるので使わないようにしよう。」との申し合わせになっています。この意味を十分意識する事も大切なことです。

○ 遺伝病ではありません

○ 感染力の極めて弱い細菌による病気です。

○ すぐれた治療薬により必ず治ります。

○ 早期に治療すれば、身体に後遺症などの障害が残ることはありません。

○ 現在わが国には感染源なるものはほとんどありません。身体の変形は後遺症にすぎません。

○ もし感染しても隔離する必要はありません。

 

Ⅱハンセン病差別


1 国家のハンセン病に対する政策

近代化をうたう日本国家において、ハンセン病に対する差別は1907明治40)年「癩予防ニ関スル件」法律第11号の規定が制定され、ハンセン病対策として浮浪患者の取締りによって始められました。1931(昭和6)年「癩予防法」制定までの間に、患者の撲滅・抹殺を目指す体質に変わり、強制収容・隔離政策に発展しました。患者の救済や「あわれみ」を表明しながら、病気の伝染性を誇張し、恐怖心や偏見をうえつけることを国家の政策として正当化していきました。明治以来、欧米に追い付こうと富国強兵策や文化国家を目指す政府にとって癩患者は邪魔な存在でした。

一方ハンセン病に関する専門医師 光田健輔氏はハンセン病を伝染性と断じ、その予防対策として政治的な社会防衛論を打ちたて「強制隔離」を主張しました。国家にとって政策推進するには、まさに渡りに船で、「癩撲滅運動」・「祖国浄化運動」へ、そして「無癩県運動」へと国家政策は進展していきます。1909(明治42)年、公立療養所が全国5地区に設置されました。

2 差別の実態

  ①強制収容と強制隔離及び秘密漏洩

*患者を強制的に連行し、従わぬ者には脅迫、暴言、罪人同様に扱い。家族にも脅迫やさまざまな、いやがらせ等を与えています。

*公然と家や通った道などの消毒。輸送列車は荷物運搬の貨車で、ぞくにお召し列車と呼ばれていました。患者に対する秘密保護など全く守られていません。そして家族にも甚大な苦痛与えています。

②ワゼクトミー(断種)の結婚と堕胎

*遺伝説を採りながらハンセン病患者に条件つきで結婚を奨励しました。その理由は、療養所内でよく騒動が起るので治安維持(男性制御)策を考えたのです。療養内には男子が多く、女子が少ないため結婚を条件つきで許しました。その絶対条件が断種・堕胎でした。

*民族浄化の名のもとに子孫を絶やす対策は一挙両得、まさに牛馬犬猫並みの対応ではないでしょうか。

  ③劣悪な治療と強制労働

*医師・職員の不十分な配置のため十分な治療もなされず、それどころか重症者の看護、火葬作業、園内作業など過酷な労働に従事させられました。餓えと障害との2重3重の苦しみ、抹殺同様の処置でした。(特に戦中など筆舌に尽くせない悲惨なものでした。)

  ④不当な懲戒処分権


*施設管理支配のため療養所所長に懲戒処分権が与えられていたため不当な懲戒権行使が乱発されました。その悪用は目に余るものがありました。「餓死・凍死・病死・特別病室(拷問部屋)―1年以上の長期拘留処分をされた例もありました。その理由の記録など一切抹殺されて残っていませんが現存者の証言で明らかです。


 ⑤偏見・差別の助長及び名誉毀損

*「癩予防法」は病気に対する誤った恐怖宣伝となり、社会的偏見や差別を助長しました。それは患者のみならず家族にも同様な苦痛を与えました。戦争中大本営の偽発表さながら、国民は騙され洗脳されました。そしてその無知さは差別を正当化されていきます。

⑥家族や社会との断絶 ・・・偽名の使用

*そのため自殺者や転居者・戸籍の改ざんが行われ、また収容者の多くは偽名の使用を余儀なくされました。

*家族との断絶に追いやられ、面会はおろか遺骨すら受け取ってもらえず、

今日どの園にも立派な納骨堂があり大事に管理されているのは何を物語っ

ているのでしょうか。

*死亡通知を家に送っている人もいました。(戸籍からの抹殺)

 

Ⅲハンセン病と浄土真宗本願寺教団とのかかわり

1真宗教団のハンセン病救済活動

公立療養所が設立されて以来、真宗教団は各療養所へ赴き、伝道活動を開始しました。その後この隔離方策が具体的に実行されたのは、1930(昭和5)年、日本最初の国立療養所が岡山県の長島(愛生園)に建設されました。その愛生園に熱心な念仏者、栗下信策氏が真宗信者を集めて「真宗同朋会」を結成し、東西両本願寺に熱心に働きかけました。両本願寺教団はハンセン病患者への教化活動に力を注ぎ、その関係も深まっていきました。布教使の派遣や浄財募金運動・十坪住宅献金運動など熱心にとりくみました。しかしそのハンセン病に対する取り組む姿勢に大きな問題がありました。当時愛生園に訪問した暁烏 敏布教使が「入園者の行くべき道」と題して布教された内容こそが、ものの見事に物語っています。

「病気が治ろうが治るまいが、そんなことは心配せずにすべて神佛に任せておけばよい。病気が重くなれば死ぬまでのこと。そんな事ははっきり判ってる。皆さんは自分が悪くて病気になったのではないのだが、国家のために多くの同胞のために、ここに家を離れて保養しているのである、皆さんが静かに、ここにおられることが、そのまま沢山の人を助けることになり、国家のためになります。だから皆さんが病気と闘って、それを超越してゆかれることは、兵隊さんが戦場で働いておるのと変わらぬ報国尽忠の勤めを果たすことになるのであります」と。

一方、国はハンセン病隔離政策推進手段として「癩予防協会」を設立します。この協会は貞明皇后がハンセン病医療のために「下賜」した金を基金としています。協会の事業は皇室の恩義を強く社会に宣伝することであり、皇室の「仁慈」によって強制隔離や祖国浄化の迫害を隠蔽し「哀れみ」と感謝させることが目的なのです。

その手段と本願寺のハンセン病処遇とが重なり合っています。長島の愛生園・光明園の「納骨堂」や「恵みの鐘」がその役割を果たしています。

かねて遺骨問題に悩んでいた栗下信策は園長光田健輔に相談して、当時の皇后の妹で東本願寺門主夫人大谷智子さまの寄付金で「納骨堂」が建立されました。また愛生園を象徴する「恵みの鐘」も当時の皇太后の妹西本願寺門主夫人大谷紝子さまの寄贈により建立されました。これも光田園長の発案で栗下信策が建築委員となり1935年11月二十日愛生園開園5周年記念に竣工式・撞初式が挙行されています。

これら建立・鋳造計画の構図は、み仏の「お慈悲」と皇恩の「仁慈」を重ねた見事なまでの組み立てで、祖国浄化のため強制隔離収容させられている患者をも納得させ得る、巧妙に仕組まれた癩撲滅政策といえます。

このことは全ての教団人はいうまでもなく、国民は「あわれな患者」と、同情的な面のみ知らされ、迫害を受けている患者の差別実態から目を外されていました。

以上のように、国家はハンセン病対策「癩予防法」を制定し、絶対隔離こそ唯一最良の方法であるとの光田説に従って推し進めてきました。真宗教団もその「祖国浄化」、「癩撲滅運動」「十坪住宅献金運動」に同調し協力してきました。

しかし、この国家政策に対して異を唱える人がいました。その人は京都大学皮膚科の小笠原 登博士です。彼は光田氏の医療思想と全く対立する説を唱えました。「らいは絶対に隔離を要する病気ではない。断種など不要である。重症以外は家庭で業務に従事しつつ治療が出来る。」と主張し、また実際にそのような治療をしていました。

小笠原氏は愛知県の大谷派圓周寺の出身で、兄は大谷大学に勤め、祖父の代から本堂の縁などで患者の治療の当たり、家中患者と親しく接触しその治療に尽くされてきました。博士自身も、いつも念珠を手にして治療に当たり、患者の立場になって「遺伝説」「伝染説」の研究を重ね、長期にわたるデイターを基に「隔離・断種を真っ先に断行するものではない。他の衛性状態や栄養状態の改善によって絶滅することが出来る病である」と主張しています。

この事を宗教新聞「中外日報」が取り上げ世に紹介しました。以来 紙上で、はげしい学術論争が展開されていきます。

この小笠原説を支持し世論に訴える機会を提供したのが「中外日報」社の記者三浦参玄洞氏です、彼はもと奈良県の本願寺派誓願寺の住職で、水平社創立の時、西光万吉やその同志に尽力した事で有名な人物です。

しかし、光田氏を中心とする「癩学会」は医学論より政治的立場から小笠原博士を圧殺し、国家・民族の立場から断罪してしまいます。

今にして思うに、この事件を機に教団は、それまでの教団の間違った姿勢に気付くべきでなかたのだろうか。いや教団の首脳陣は当然承知していましたが、当時の教団の体質が、小笠原博士の正しい提言を黙殺したのです。提言者が同じ真宗者であり、また支持者がもと寺院住職三浦氏の強力な提言にも関わらず拒否しています。このような教団の体質は、水平社創立(三浦氏支持する)の時にも、その主張している人権論は「悪平等論」だと対抗し、彼らを「社会革命集団」と受け止め、その論をも黙殺していく姿勢そのものです。

当時教団人をはじめ国民の多くはハンセン病に対する正しい知識は全くありません、その正しい啓蒙は、教団首脳者の姿勢一つにかかっているのは言うまでもありません。ハンセン病患者の人権など考えず国家政策遂行の方針に追従して、「同情・哀れみ」の対応を続ける教団の姿勢はまさに形骸化していくのは当然です。

2 S布教使「ハンセン病差別法話」問題

本願寺教団の形骸化したハンセン病対応が如実に現れた事件が、この「ハンセン病差別法話事件」です。

*1984年(昭和59)5月本願寺派のS布教使が山陰の某寺での法話の中で、み仏さまの救いに出会った喜びを、長島の愛生園の念仏者を比喩に「ハンセン病の人でさえこんなに喜んでおられているよ~」と相対論法で語ったり、話を誇張したり、虚偽をまことしやかに語るなど、まさに「ハンセン病」に対する偏見や差別を助長するような法話をしました。

*一般聴衆は虚偽・誇張とは知らず「気の毒だ」「可哀想に」と涙を流し感動しています。この事は同情や哀れみを誘い「私でなくてよかった、また家族でなくて良かった」という安心感から優越感に、また恐怖心をあほり、差別心を起さしめるなにものでもないのです。

*内容例

○「20年このかた行っているけどなぁ」

・本人は一度も訪問したことがありません。

○「若い人が多いんです、子供が生れるのです。みな里子にだすのです」=断種や堕胎させられて子供は欲しくともできません。夫婦にとって、どれ程悲しい事か。その心を逆なでするようなひどい言葉です。

○「浄土真宗のお坊さん以外は誰も行きません。そして島に上がれば消毒されるんです。」

・これも全く嘘です。当時長島に伝道のため訪問している主な教団には、浄土真宗(東西)・真言宗太師講・禅宗修証会・日蓮宗日唱会・本門佛立六清会

・天理教誠心会・キリストキョウ曙教会・カトリック、ロザリオ教会・日蓮正宗創価学会など(平成12年現在)数多くあります。そのうえ島に来る人に消毒など一切いたしません。

○「患者は誰一人本名を乗りません、みんな偽名を使うんです。鼻がとれ、耳がとれる。手の指がありません。」等々。

・本名を名乗ってる人も数多くおられます。後遺症のある人もいますが全てではありません。いま愛生園で生活している人は「ハンセン病患者」ではありません。後遺症はあっても完治しています。回復者です。

*昨今はハンセン病回復者と呼ばれています。          

*愛生園の人がそのテ-プを聞いて激怒され「胸かきむしられる思いがした」と言われました。

事件対応の経緯と教団の変革 

*1986年(昭和61)11月28日―本願寺で中央研修会が開かれた時、愛生園より報告を受けました。その後直ちに次のような対応に取り掛かれました。(順次項目を列挙)

・事実調査・テープ内容の検討。

・対応委員会設置=委員長は総務・副委員長杉本昭典常任座長。

    対応の内容=S布教使と委員と講演内容を一語一語徹底的に分析し、法話内容の差別性を徹底糾弾学習。また愛生園の人々との交流研修会の実施。

その結果、教団人いや国民の大半はハンセン病に対して何も知らない無知と偏見者で、自分こそ差別者であると言うことに気ずいてもいないことが知らされました。)

    本人は当然ながら、教団人すべての責任と受け止め、教団挙げて人間変革のための徹底した学習会実行の方針を決定。

・本願寺内大講堂での中央研修会において謝罪講演実施、・差別法話実施の某寺への謝罪布教実施。

・今まで教団内で具体的にハンセン病問題を取り上げての学習や、研修がなかったが、これを機に全教区・全組に法話内容を教材として「ハンセン病差別問題」を取り上げた研修会を実施。住職・門信徒への徹底を図り、教団の変革を図る活動の実施。

    長島の愛生園・光明園との定期交流会・常例布教(十方会布教団)を積極的に実施。

Ⅳハンセン病国賠訴訟

*1998年(平成10)7月31日 ハンセン病回復者13名が、熊本地裁に「癩予防法」違憲国家賠償請求」を、国家に15億円の賠償を求める訴訟をおこしました。

●訴訟の理由 (項目を列挙)

*1996年(平成8年)3月(らい予防法)の廃止により「ハンセン病」問題は解決したと思われているが、廃止は見せかけのものであったことを指摘。

*厚生大臣の反省陳謝はあったが、廃止法の付帯決議が全く実行されていない。

*付帯決議=「政府は、本法施行に当たり、深い反省と陳謝の念に立って、次の事項について、特別の配慮を持って適切な処置を講ずべきである。

①ハンセン病療養所入所者の高齢化、後遺障害等の実態を踏まえ、療養生活の安定を図るため、入所者に支給されている患者給与金を将来にわたり継続していくと共に、入所者に対するその他の医療・福祉等処遇の確保についても万全を期すること

②ハンセン病療養所から退所することを希望することについては、社会復帰が円滑に行われ、今後の社会生活に不安がないよう、その支援策の充実を図ること。
    通院、在宅治療のための医療体制を早急に整備すると共に、診断治療指針の作成等ハンセン病治療に関する専門知識の普及を図ること。
    一般市民に対して、また学校教育の中で、ハンセン病に関する正しい知識の普及啓発に努め、ハンセン病に対する差別や偏見の解消について、さらに一層の努力をすること。」

*これらのことが如何に守られていないかは=国民の殆どの人がこの訴訟が起こされて初めてハンセン病差別問題を知ったのではないか

*社会復帰者の生活不安=国の支援策の一時金の上限 150万円のみー平均73歳の老人に対してなにができるか。40年・50年の長期にわたっての保証といえるか。

*優生保護法は廃止されたが強制的断種・堕胎手術された患者回復者に対しての国会の責任や残虐行為などの不問。

*依然厚生省の隔離政策の思想は健在=職員給与(感染の危険率)調整額の改正無し。

*137名の弁護団の手弁当での力強い支援。

●原告全面勝訴判決

 *2001年(平成13)5月21日熊本地方裁判所(杉山正士裁判長)で画期的な勝訴判決。

*その主な内容

・国は原告等に対して18億2380万円支払え。(1人1400万円~800万円)

・1960年(昭和35)以降においてハンセン病者について隔離の必要性が無くなっていたにもかかわらず政策の変換・法の廃止等怠ったことは違法性と過失がある。

*癩予防法に関しての経緯(年表抜粋)

・1907年(明治40)癩予防法制定。(浮浪癩者を対象)廃止まで90年間。

・1932年(昭和6)癩予防法制定。(全患者の収容)

・1947年(昭和和22)日本国憲法施行~癩者に対する配慮全くなし。

・1948年(昭和23)癩条項を含む優生保護法制定。

・1949年(昭和24)プローミン予算5000万円通過。

・1953年(昭和28)癩予防法改正法案条件付き通過。

・1960年(昭和35)WHO(世界保健機構)外来治療管理の方向を勧告。

・1996年(平成8)1月厚生大臣謝罪―3月癩予防法廃止。(付帯決議)

・1998年(平成10)7月30日 第1次訴訟。(高松高裁)

●裁判上の論点

*隔離政策が必要であったか。

*強制労働・断種・堕胎等による人権侵害の有無。

*賠償請求権の有無。

●政府の控訴和解から控訴断念への経緯

*政府与党内の意見=おおかたは控訴必至の姿勢=堅固。その理由は、

・「感情論と、法律論は別だ。控訴やむを得ない」と言う意見と年齢的・長年の苦しみなどに対する同情的な意見も。

・国会議員の立法活動に関する判断や民法の解釈により、「損害賠償請求権は20年を経過する事により消滅する、これは40年間にわたる賠償を認めることになる。民法の規定に反する、国民の権利・義務関係への影響が大きく・法律論として揺るがせない」との意見。

*賠償があまりにも多額ですから控訴して減額しょうと図った。

・本年度予算420億円。  熊本地裁が、命じた賠償金、は、一人当たり、1400万円~800万円で 回復者数が4400万人で440億円、合計860億円が、必要。

*政府のメンツとは、地裁レベルの判決を、そのまま受け入れることは政府の権威にかかわると言う。控訴をして和解に持ち込むことでメンツを立てようとした。

*控訴断念=回復者の熱意と世論の声。

原告、弁護士を中心とした多くの回復者の熱意や、マスコミの強い支持。及び国民の声に負けた政府は、ついに控訴を断念した。与党内部にも坂口力厚生大臣を中心とした公明党の支持もあった。


Ⅴ兵庫教区布教団「十方会」長島への常例布教

*「十方会」は1954年(昭和29)54年前―敗戦後9年荒れ果てた国土と不安な社会状況のなかで、1日も早く平和と活気を取り戻すために「仏法ひろまれかし」と念じ、「兵庫教区の布教使の有志に互いの親睦と研鑽を」と呼びかけた杉本信雄(初代会長)によって発足。(当時約20名―現在約30名)

*愛生園・光明園会への訪問布教活動は報恩講や法要など行事のある時に会員の奉仕活動として随時訪問していました。

*当初は1泊2日で1回4名の布教使が出講しました。時間的にも余裕があり、愛生園の人ともゆっくり話し合ったり碁や将棋を一緒にすることが出来ました。しかし、1968年(昭和43)から日帰りで2名の講師出講となりました。    

*十方会員の杉本正典が1961年(昭和36)教区より愛生園・光明園の専任布教使に任命されました。以来、彼は月に何回も長島に足を運んでいます。そして十方会員も伝道布教・法要行事・声明講習・佛婦の訪問斡旋引率に合同法話会等々に協力し、出番も多くなりました。

*十方会が常例布教「十方会月例法話会」の専任担当として毎月出講と決また経緯。

・両園から兵庫教区に常例布教の依頼がありました、兵庫教区の布教団が中心になって対策を練ったが決論が出ません。その理由は「兵庫教区布教団では布教使を毎月継続的に確保できない」との事です。当時布教使の中にはまだハンセン病に対しての理解がなく、恐怖心を持つ者も少なくありませんでした。結極、永年奉仕を続けてきた「十方会布教団」が引き受けました。即ち長島愛生園・邑久光明園の「常例布教」に関しては、兵庫教区教務所長并に教区布教団より依頼をうけ「十方会布教団」が責任を持って今後続ける約束が交わされました。その後両園に通知して了解を得て決定しました。

1973(昭和48125日より出講することに決まり。当日十方会の佐々木敏雄会長が報告を兼ねて出講しました。

・翌年1月5日から「十方会月例法話会」と呼ばれるようになり、講師に光明園=岩田信雄、愛生園=杉本昭典が出講と記録されています。

・当時は宿泊せず日帰りです。家から約3時間、JR赤穂線日生駅で下車して長島より迎えの船に乗り約40分間。桟橋には必ず数名の人が出迎えてくれて、帰りにはまた何人か見送ってくれたのが印象的でした。

*以来35年「十方会月例法話会」に全会員交代で出講していますが、現今とは違い、誰もが始めからすんなり長島に行けた訳ではありません。長島への布教は先ず何よりも病気に対する恐怖との葛藤です。

F会員は「・・・長島行きを指示されたとき、抵抗を感じました。その時横合いの、今はなき先輩から『心配なんやろう・・・心配ご無用。あんたのお父さんも出掛けて下さったし、会員なら長島伝道は使命や。今頃長島行きを怖がるのは時代遅れや』と一喝。長島での初対面の挨拶に『正直言って、ここへ来るまでに決心がいりました。恐かったのです』と自白に及びました。皆さんは深く頷かれました。・・・事もなげに話される中身の厳粛さに身の引き締まる思いがしました。・・・始めて耳にする話の壮絶さにただ息をのむばかりでした。」と語っています。まさに会員たちは直接長島の同行たちと向かい合い,膝を交えて、その生きざまを見て教えられました。人生の出会いの尊さを学びながら、念仏弘通のため、現在も喜んで足を運んで学んでいます。

Ⅵ「ハンセン病」の歴史と親鸞思想

1「白癩(はくらい)」「(かった)()―<エタ・カッタイ・非人>

①我が国の古い文献に「(らい)」の語が出てくるのは「日本書紀」612年(推古朝19)に百済からの渡来人の中にいたと言う記事があります。

②聖徳太子建立の寺や悲田院で病人の救済に当たったがその中にも「癩患者」が含まれていたと考えられます。

③奈良時代 養老七年(723)に興福寺に施薬院、悲田院が置かれました、また天平二年(730)皇后官職に施薬院が設けられ、光明皇后が「癩患者」に湯施行をしたと伝えられています。

(りょうの)義解(ぎげ) 天長十年(833)の中に「白癩(はくらい)」の語がみえます。

大宝律令(大宝1-701)~養老律令(養老2―718)

(りょうの)義解(ぎげ)=養老令の官選注釈書―施行法です。

*「悪疾」=「白癩」は同意で=「虫有りて人の五臓を食う或いは()(けん)堕落(だらく)し、或いは鼻柱(びちゅう)崩壊(ほうかい)する。或いは声嗄れ(かれ)変じ、或いは支節解落するなり、またよく傍人(かたわらのひと)に注染す。故に人と床を同じうすべからず」と記されています。(病状や伝染病であることを掌握しています。)

2「癩者」を悪人と呼ぶ


    癩=らい=片居=カッタイは同意語です。

    「今昔物語集」(12世紀)には、癩患者が「エタ・非人」と共に共同社会から阻害され、排除されていく様相が記されています。

    癩者を単に病人として恐ろしがられるのではなく「悪人」と呼ばれていました。

     「悪人」とは、・悪しき者 ・不敵な者 ・秩序外的な強い者=(権力者側の目から見て)

「源平盛衰記」に「法律を乱す者や人の情けを知らぬ者のことを悪しき者と

して不敵癩(ふてきらい)と申すなり」とか「あれ程ふて(カッタイ)に会うて命を捨てんこと無益也」「あんな猪見たいな奴」「あんな猛獣みたいな奴」「あんなふてカッタ

イみたいな奴」といった語があります。

3浄穢思想と業思想

①また当時、我が国に広まる浄穢思想は見逃せません。

・浄とは清浄のことで、これに対置して(けがれ)(けがれ・おえ・おわい・け・けがらわしい・ケ〈気〉が枯れる)・または不浄なる語を用います。

・穢れは神道における禁忌の意識や、仏教における不浄の意識に通じ、生業・身分・性の現実に古くからかかわってきました。 

(けがれ)の思想は「古事記」―和銅5年(712)にイザナギがイザナミの死にあって「黄泉(よみ)の国」「冥土」から逃げ帰った穢れ(けがれ)の話は有名です。

②触穢思想=穢れたもの(者・物)に触れること・見ること・聞くことを忌み嫌う=家庭や社会から一切排除しょうとする差別行為が生れます。

③延喜式(927完成)=国家レベルで穢に触れることを忌みと法制化されます。

④エタ・非人・(カッタイ)の差別(疎外・排除)は触穢思想と重なって広がります。  

*印度のアンタッチャブル・アンシィアブル(アウトカーストの影響か)

⑤13Cの成立の「(じん)(ぶくろ)」に「非人・カッタイ・エタなど人まろいもせぬもの(人と交わりをしないもの)と記されています。

⑥癩は天刑病(天から刑罰として下された病気)といわれて恐れられました。

業病(ごうびょう)とも云われました。=仏教の説く因果(いんが)応報(おうほう)思想によるとも説かれています。

*宿命の罪の因縁=<もっぱら前世の業―あるいは今世の破壊が前世の業を動かし業の力が病を成ず>と

⑧仏教において癩が特別視されていたことは「大智度論」巻5に「諸病のうち癩病は最も重く宿命の罪の因縁の故に治し難し」と述べています。

⑨中世にかけても法華経―普賢菩薩の勤発品に<この経を受持する者を見てその過悪を出さば~この人は現世に白癩の病を得む>と記されています。

4《三穢・三不浄》=・「死穢」=黒不浄・「産穢」=赤不浄・「血穢」=白不浄
 

*五穢=(死穢・肉穢・血穢・産穢・女穢)もあります。

*死穢=黒不浄とは、とうぜん人畜の死に関することです。家族、縁者も受ける穢れで、他家、他人にも伝染するものとされていますので、外出、接触、面会を避け遠ざけて他人の生命力を保持すべく忌を行うとされています。この行為を喪に服するといいます。また人以外の動物の死に関することの皮革、生肉等に携わる生業者等にも及び忌み嫌われます。

*産穢=赤不浄とも言い、お産をする女性に対する穢れの事です。赤は血の穢れ、(血に対する恐怖から)女性差別の元凶です。

*血穢=白不浄とは、血統・家柄・身分等に対する穢れのことです。

この思想が癩は穢れ、遺伝する(家筋)等と差別される元凶です。

5「ハンセン病」と親鸞思想

浄土真宗の開祖親鸞聖人が「ハンセン病」をどのように見ていたか次の3点に絞って紹介します。

①「愚禿」を名乗る親鸞

 親鸞は1207年((しょう)元元(げんがん)(ねん))法然門下と共に流罪になったとき親鸞は憤を満身に込めて言っている言葉によりますと。

「主上 臣下 法に(そむ)き義に()し 忿(いかり)をなし(あだ)をむすぶ これによって真宗興隆の太祖(げん)(くう)法師ならびに門徒数輩 罪科を考えず みだりがわいく死罪に(つみ)す。あるいは僧の儀を改め 性名(しょうみょう)(たま)いて流罪に処す 予はその一つなり しかれば僧にあらず、俗にあらずこのゆえに「禿(とく)」の字をもって姓とす。」と「禿」を名乗りました。以降「()禿(とく)親鸞」とも名乗っています。

*愚禿=おろか者=禿(かむろ)下類(げるい)=悪僧=(らん)(そう)=悪人=河原者(かわらもの)・・・被差別民

「禿」=国家体制のイデオロギーの秩序を破る。即ち破戒、無戒の悪僧,濫僧をいみします。(家に妻を蓄え、口に肉を(くら)ふ)また「かむろ」とも言う。(頭髪が抜けてはげる者=醜いもののこと)この事は自分自身を(貴族身分)捨てて賤民のたぐいの「下類」に位置しているのです。

    「下類」=中世・近世賤民の呼び名『愚か者・悪僧・濫僧・悪人・穢れ者(エタ・非人)浄め・忌め・屠児・狩人・漁師・商人・山伏・(つる)神人(めそう)・女性・癩者・聖・遊芸人・博徒・盗賊・遊び女・馬借・車借・乞食・河原者=河原乞食(清掃・庭師・井戸掘り・興行者(芝居・歌舞伎など)染め物・皮革・処刑・さらし首等に携わる者)=地代や税のいらぬ河原で住み、生計を立てている者』まさに世間一般の人々から一段と低く見られながら畏れ憧れさえもたれるような不思議な人びとで、垣根の外の暮らしをしている類。


   
「悪人正機」説

「善人なほもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」―(歎異抄)

・阿弥陀佛の救いの目当ては「われこそ悪人だ」と、悪人としての自覚のみならず、この言葉には「下類」と賤視されている被差別民をも、視野にいれています。

*「これらを下類といふなり。・・・れうし、あきびと、さまざまのものは、みな、いしかわら、つぶてのごとくなる、われらなり。」(唯信証文意)

・親鸞が「下類」と自称する言葉には、思い上がっている傲慢な上類(権力者)に対する笑嘲の言葉なのです。

・「道端に落ちている石や瓦・小石のような、足で踏みつけていく何の取り柄のないもののように、大地にへばりついて生きているわれらなり」と自分自らの生き方を人のみならず生きとし生くる全てのものを見上げながら生きるのだと言う気迫に圧倒されます。・これらの言葉は親鸞の真骨頂とも言うべき、身の引き締まるような言葉です。

③「本願には善悪、浄穢なきなり」まさに「悪人・穢」の差別実態を打ち破る姿勢です。

・「阿弥陀佛の救いの目当ては善人も悪人も、そして浄なる人も穢なる人も、全て平等だ」と受領し、伝道している言葉です。

*親鸞在世の時代は古代貴族社会から武家社会へと移行する時期にあり、非常に強い尊卑、貴賎の考え方があり政治的、社会的にも複雑な差別を形つくられていて、その時々の支配権力と結んで社会的身分差別を生んできました。その状況のなかで「善悪、賢愚、貴賎をえらばない、万人を平等に摂取したまう阿弥陀佛の救いこそが真実だ」説き、人間が作り上げた身分や、職業の貴賎といった差別を超え、すべての人間の尊厳性と平等性を明確に主張していかれたところに親鸞の思想があります。

*被差別民が親鸞の教えに惹かれるのはこの教えなのです。

*後世 権力者の無謀な圧政に抵抗する一向宗(浄土真宗)の「一向一揆」の力こそ、人間の尊厳性に目覚めた民衆の力の結集に他なりません。

6ハンセン病と癩

今日ハンセン病患者と言っている人と、この当時「癩」」と呼ばれていた人とは少し違っています。広範囲にあらゆる皮膚病者まで含まれていました。

また「悪しき者」「ふてカッタイ=不敵な者」「秩序外的な強い者」「下類」「いやしからん者」なども総称されていました。

近世江戸幕府時代の封建支配体制下では患者の移動にも制限されていました、といって一定の所に永住することも出来ず、「エタ・カッタイ」の枠組みの社会外最低の集落をいとなむか、「放浪し」「乞食」として命をつなぐしかありませんでした。また、共同社会から逐われ「捨往来手形」・「特別往来手形」をもって四国八十八ケ所廻りをしました。「遍路」に対して「へんど」とよばれ区別されました。捨てられた「へんど」のゆくえは命つきるまで放浪だけで一般の宿には泊まれなく、お寺の本堂の縁の下か野宿しかありません。人々の温情で命をつなぐ日暮しで生涯をおえます。幕府の政策に救済措置は見当たりません。

Ⅵまとめ

1教団の差別体質を問う=反省と謝罪

*5月11日熊本地裁の判決の下された時、真宗大谷派と浄土真宗本願寺派は隔離政策に協力し、ハンセン病患者への偏見と差別を助長してきたことに対する謝罪を発表し、続いて国に対して控訴を断念するように要請をおこないました。国が控訴断念の決定をしたことにも、同じ過ちを繰り返さないと決意表明をしています。

*何の謝罪か=我が教団のとってきたハンセン病に対する差別・偏見を助長し

てきた責任です。開祖親鸞の「愚禿」と名のった思想や「さまざまのものは

 みな いし かわら つぶてのごとくなるわれらなり」と述懐された心情をいつしか忘れた行為、特に封建支配体制下及び、近代国家の「癩撲滅」政策に順応した体質こそ重大な誤りです。

*近代仏教界ではハンセン病患者救済事業に消極的でした。ただ明治39年日蓮宗の僧 綱脇龍妙の見延深敬病院の設立がありました。また翌40年全国5ケ所に公立療養所が設立されました。その節、患者に宗教的慰安を与える必要のため佛教側に教誨使の派遣を依頼して来たがたが、伝染を恐れて、なかなか申し出る者がありませんでした。やがて真宗大谷派が担当することになり、後にキリスト教も協力しています。

昭和6年(癩予防法制定)我が国のハンセン病絶対隔離政策の本格的なスタート(全患者の収容)に東西両本願寺が追従しています。その後の宗教教団は国家の終生絶対隔離政策の荷担者に過ぎない「皇室からの下賜金だ」・「恵みの鐘も、みのりの鐘の音」も哀れみの鳴き声に聞こえます。差別墓石の前で拝んでいる、ばぁーちゃんに信心説いているような慰問布教だったのです。

しかし、慰めの布教に終始していたのではないが、宗教家は自分の属する宗教の教えは説くが人間として解放されるための教えを説いていなかったのです。ある宗教家の「皆さんが静かにここにおられることがそのまま沢山の人を助ける事になり、お国のためになります。」と紹介しました姿勢に良くあらわされています。

2共に生きる道を開こう

①「十方会布教団」が長島の愛生園・光明園に布教に出講した当初、まさにハンセン病恐怖との闘いでした。先輩たちは「絶対怖くない、握手しても、抱き合っても、うつらんから。なんにも 普通にお説教をしてこい、けど後で必ず対話をすることや」それから「慰問に行くのんと違うぞう、自分の信心語ってこい」と教えられました。

②まず長島の同行と本音で話し合い学ぶ事の大切さをしりました。

③膝突き合わせて、悲しい、つらい生きざま聞いて、涙する時(この指切り落とされる時、「今切らんと今度は手首やで、ほっといたら命ないで」・・・この指切ったお陰で命助かりましたと。)両手握りしめる手に思わず、握りあっています。

④帰りに「有難うございました。また来てくださいよー」いつまでも手を振って送ってくれます。また足が向いて行きます。

⑤「慰問説教」「慰問説教」と言われるけど、やっぱり「慰問説教」してたんかなぁー?・・・そうやろうなぁー。

⑥「慰問説教」と酷評されるのは、国の隔離政策の中で行うっている限り、それを認めた、同情や哀れみの心で説く布教だと言われるでしょう。

⑦国民のほとんどの人は「癩予防法」が不当な差別法とは認識していませんでした。「ハンセン病」に関しては全く無知でした。ちょうど、あの忌まわしい戦争が侵略戦争だとは知らず「聖戦だ」「死して軍神だ」「お国のため」と信じさせられたように!  そのことに気付かされたのは、1998731日に熊本地裁に起こした「ハンセン病国賠訴訟」でした。すべての国民が人権侵害の実態に気付かされました。その意味から十方会の「常例布教」も「慰問布教」と言えましょう、反省はしています。しかし先輩たちの奉仕は無駄ではありません。命がけで恐怖と闘いながらの、尊い伝道布教だったのです。戦後混乱社会のなか、人々のすさんだ心に「生きる尊さの芽を育み、念仏と共に歩もうよ」と呼びかけ、輪を広げながら長島に渡り「ハンセン病回復者」とも、朋同行として念仏を喜びあう実践でした。

⑧Aさんはこんな事を話してくれました「強制、強制と言われているけど、本当は私、自分から進んで此処へ入所したんです。ここへ来てほっとしました。」

またBさんは「お念仏によって私たちは救われているのが事実です。この教えが無かったら生きておれなかったと思います。」

⑨まだ一度も行ったことも無い人から「慰問布教だ」と言われても「一度長島の大橋を渡ってみてください」と答えるばかりです。

⑩「S布教使ハンセン病差別法話」事件後、教団挙げて「ハンセン病問題」に取り組んだ時。なぜあの時点で,もう一歩踏み出せなかったのか、悔いが残ります。それは、15年後に起こされた「ハンセン病国賠訴訟」が指摘した、「国家・社会の人権侵害の訴え」にまで踏み込めなかった未熟さを心から反省しています。今後とも御同朋として、共に念仏者として、差別・被差からの放を視点に力強く歩んでまいります。

以上

浄土真宗 十方会
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ハンセン病について